神学大全 第一問 第五項 聖教は他の諸学に優位するものであるか
次に諸学と聖教、どちらが優位かをトマスは論じる。聖教は他の諸学よりも優位だというのがトマスの主張だ。それはなぜか。
ある学問が他の学問より優位かどうかは、その対象となる素材の優位性とその学の認識の確実性によって決まるとトマスは言う。素材の優位性についてはさておき、「聖教の確実性ってフツーの学問、諸学のほうが確実な基礎から出発しているのだから確実なんじゃないの?と思うのだが、実際、異論はそのようにトマスに反対する。
ところで、他の諸学にあってはその根源たる諸々の基本命題について疑いの生じえないのに対して、聖教の場合にあっては、その根源たる信仰箇条が疑義の余地のあるものなるがゆえに、前者が後者よりも、より多くの確実性を有すると考えられる。聖教以外の諸学の方が、だから、聖教に優位すると考えられる。p.13
ところが、トマスによれば話は逆なのだ。諸学の確実性は所詮は人間理性によって求められるものなのだが、人間理性は誤ることがある。これに対し、聖教は神の知によっている。神の知は誤りえない。だから神の知による聖教のほうが優位であると。
「いや、信仰箇条のほうが疑えるだろ」。それはトマスによれば勘違いなのである。どれだけ確実なものであろうと人間理性に限界があるため「我々に関する限りはそれほど確実ではない」ということはありうる。要は神知は確実なのだが、それを人間理性で捉えようとすると人間理性のほうに限界があるため、確実とは思えないだけだ、単に人間理性が無力なだけだとなる。
信仰に基づく学のほうが、理性に基づく学よりも確実だから優位だというこの論法は、そのままでは飲み込みにくいが、とはいえ、トマスを現代の基準や考え方から否定しても得られるものは少ないだろうし、実際「今ある近代思考とは別のありえた思考」をそこから探るほうが有益だろう。
加えて、そもそも理性ってそんなに信用できるのか?という疑問自体は、むしろ非常に現代的でもあるかもしれない。
ウェブスター国際英英辞典では、「妄想(delusion)」は、「実際には存在しないものに対する、理性によっては制御できない誤った考えや執拗な信念」と定義されている。直観主義者の私としては、理性の崇拝それ自体が、西洋の歴史上もっとも長く生き続けている妄想の一つ、すなわち「合理主義者の妄想」だと言いたい。それは、「合理的な思考能力はもっとも高貴な人間の属性であり、それによって、(プラトンに従えば)人間は神のような存在になり、(新無神論者によれば)神の信仰という『妄想』を脱却できる」という考えのことだ*46。 ジョナサン・ハイト. 社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学 . 株式会社紀伊國屋書店. Kindle 版位置2099 ここでのジョナサン・ハイトの「理性崇拝自体が妄想」という点は、理性に疑いを投げかけている点で、トマスの主張とそんなに遠くはないだろう。
でも、聖教だってその探究においては理性を使うのだから、結局、学というのは理性を使うしかない人間の営みで、だとしたらそんなに他の学問と変わりないのでは。結局、相違はそれが神的啓示に基づいているかどうかであって、だとしたらトマスが証明しなければならないのは、神的啓示が他の学問の基本命題よりも「疑いえない」ことなのだが、この点についてはほとんど説明がない。
(......)この学が哲学的な諸学問から何ごとかを受けるということもありうるが、それは決して、こうした哲学的な諸学問を不可欠的に必要とするからなどというのではなく、却ってそれは、この学において伝えられるところについての可能なかぎりの解明を期せんがためであるにほかならない。けだし、聖教がその出発点たる基本命題を受けとるのは、他の諸学からではなくして、啓示によって直接に神からなのである。それは、だから、他の諸学を上位に仰いでそこから受けとるのではなくして、却ってこれら諸学を、下位のものとして、婢女として用いるのであって、それはあたかも、棟梁的・建築的な学が下働き的な諸学を用い、政治学が軍学を用いるのに似ている。そして、こんなふうに他の諸学を用いるということそれ自身も、決してこの学の欠陥とか不充分さとかによるものではなく、それは却って、我々の知性の欠陥に基因している。つまり、我々の知性は、他の諸学の基づくところたる自然的理性によって伝えられることがらを手引きとすることによって、この学において伝えられる「理性を超えたことがら」にまで、より容易く導かれうるごとき性質のものなのだからである。神学大全①p.15 「理性を超えたことがら」こそが最高の真理なのだが、人間の知性には限界もあれば「クセ」もある。だからアプローチするには自然的理性を使うしかないし、そうすべきだとトマスは言う。理性を超えた事柄を理性で.....と言われると頭に?が浮かぶが、でも、実際人間理性を超えたものについて理性でアプローチすることがどういうことであり、あるべきかを考えていくことは、一般的な哲学の、実在論的なアプローチと近いのかもしれない。
もうすでにだいぶトマスを見失ってる気がしてならないが、まだたったの15ページ。どんどん読んでいく。